おっちゃん、おばちゃんがやってるラーメン屋
でラーメンを食べた。うまい。
なんかラーメン雑誌に載ってそうないかにもなラーメン屋や全国チェーンの飲食店にお金を落とすのではなく、長年その街でやってきてる地元のおっちゃん、おばちゃんがやってるラーメン屋にお金を落としたほうがいいだろう、と思っている。
そんなラーメン屋の中でのおばちゃんとお客さんのおっちゃんとの会話。
風が強い。
すごく寒い。
隕石怖いね。
地震が終わったと思ったら隕石だよ。
北朝鮮も怖いね。
親父の遺言なんだろうけどさ。
でもあいつがやれるわけない。
周りのやつらがやってるんだ。
徳川も一緒。
?代の??は言語障害だった。
あいつ(いまの閣僚?)も大したことないのに親父のボンボンで遺産だけ。
フライデーに載ってたよ。あとで見よう。
みたいな。
こういう会話が日本全国都市部・地方で行われているんだろうなあ。
ワイドショー的な、自分は棚に上げといての他人の悪口を言いまくる、みたいな。
こういうのって80年代から?ずーっと続いていて、途切れないよなあ。
みんな悪口を言う必要があるんだろうなあ。
そんな自分も、自民党とか維新の会とか経団連に対する悪意とか悪口とかあるもんなあ。自分のことは棚に上げて。
気鋭のラーメン屋の経営者とか、全国チェーン飲食店の経営者を応援したいと思わないけど、街のおっちゃん、おばちゃんもなんか応援したいと思えなくなったなあと、思った。
そしたらもう一部のカッフェー的な店しか応援対象が無くなる?
どうやったらこのメッジャーなワイドショー悪口言説から解放されるんだろう?
最近思うこと
①MSNトップに表示される産経ニュースって、民主党、中国、韓国を嫌う観点から書かれているものがすごく多いなあ
ざまみろ民主党、ざまみろ中国、韓国、的な記事を多く見かける気がする。
自分のメインメールアドレスがhotmailなんやけど、やめたいなあ。
別にそういう価値観のメディアがあるのはいいんだろうけど。。。
排他的、多罰的な煽り記事タイトルを見ると、気分がもやっとするなあ。毎回。
②それは、脱原発、反マスメディア、反自民党、反維新の会、反経団連的な価値観の人達のツイートにも最近は感じるなあ
自分もそういった価値観を持っているけども、人殺しとか死ねとか人間のクズとかアホとかそういった言葉を見たり聞いたりすると、もやっとする。確かに今、怒らないといつ怒るんだ、という風に思うけども、怒り方をもっと工夫しないといけないのかなと思う。
自分もFacebookにそういう怒りのトーンのつぶやきをしたりしていたんだけれども、どうにもこれでは伝わらないし大人げないかなあと思ってきた。もともと、原発事故という超非常事態が発生しているのに何もなかったかのような雰囲気しか無いので、いやいややばいでしょ!と思ってるやつもいるんだということを伝えたくて政府や経団連や経済中心の価値観とかを批判するつぶやきをしようと思ったんだけど、まあ良い反応はあまりなく、「最近あいつ大丈夫か?」とか「ああ、脱原発ね(笑)」的な感じなので、どういった言葉を使えばいいのか迷っている。
それでも、これ以上攻撃的で多罰的な言葉を使うべきではないんだろうということはなんとなく思う。でも、何も言わなくなるんじゃなくて、違う言葉で違和感を表現していきたいとは思う。答えはまだないけど。
③実家に帰ったときに関西ローカルテレビで見た、成り上がり社長番組を見てもやっとしたなあ
ああいう社長さん達が、社会の成功例で、僕らは、子ども達は、ああいう人になるためにああいう人達の価値観や行動を見習っていくべき、なんやろうか?
豪邸立てても、ちゃんと税金払って発展途上国に寄付すればチャラ?
いやー、ああいう大人にはなりたくないっす。まったく尊敬できないっす。
④体をちゃんとうごかさないとやばいなあ
毎日腹筋しよう。でないと腹筋がおとろえて座る姿勢の加重にたえられず腰を悪くするだろうし、生活習慣病リスクも高くなって最悪発症してしまう。
体をうごかせば、心身ともに気持ちよく、かつ健康的に過ごせるといういいことだらけなんやから、体を毎日ちょっとずつでも動かして行きたい。たい。
音楽
もう何年もタワレコに行っていない。
10年前は毎月タワレコで最低1万円はCD買ってた。
最近はPerfumeの新作とその他ぽつりぽつりAmazonでCD買うだけで、年に10枚強くらいしかCD買わない。iTunesでもたまに衝動買いするが、なんか激しく後悔することのほうが多い気がする。
iPodで音楽は通勤のときにずっと聞いているのはこの10年変わらないが、知らないアーティストの曲聞いたり、過去の名盤を掘って行ったりするような広がりのある聞き方はしなくなった。ここ5年くらい。
今まで貯めこんだ曲達の中で、自分のお気に入りの曲を何度もローテーションして聞いてることがほとんど。
まあこれまでCDたくさん買って聞いてたときは、買って1回聞いて終わり、ということもあったりするので、同じ曲やアルバムを何度も聞く、というのはそれでよいような気がする。
あとは、はじめて聞く曲を耳になじませて行く作業がとても苦痛に思うようになってしまった気がする。なので耳なじみの良い手持ちの曲ばかりを聞いてしまう。
前はその作業が苦痛ではないぐらい、何かそういう行為にエネルギーを注げる動機があったんだろう。
今は本を買って読むのにエネルギーを注いでいる。本は逆に、既に1回読んだ本をもう一度読むのが苦痛に感じている。
だから常に新しい本を買って補充している。読んだことのない文章が途切れないように。
一回読んだ本をもう一度読むのは、高校のテストの答案に記入し終わったあとの見直し作業が苦痛なのと同じ感覚がする。記憶が残っている間はその記憶をわざわざたどることの無駄さがわずらわしく感じられるのかな。記憶から消えれば、再読するのはすごくまた新鮮でおもしろく感じられる。
株式会社
というのは人情や道徳や自然とは正反対の論理で動くことを是とするもので、そこに非人情とか文句言ってもしょうがなかったりするのかなあ。。。
それならそれで、すごく限定的な論理でしか動いていないものなんですよということを本人が自覚してアナウンスしてくれればいいのに、それを人間や教育や文化や医療や社会や世の中全般のことに拡大的に適応して発言してくるから問題が起きてくるのかなあ。
と、「株式会社という病」という本を読んで思った。
オリンピック
まわりだけではなく、選手自身も金メダルにこだわっているけど、そんなに無理しなくていいのになあと思ってしまう。
なんか結果的に金メダルとれちゃった。というのはあるとしても可能性は低くて、金メダルをとるためにはどうすべきかということを考えて動いていないと、実際には金メダルはとれないんだろう。
現状よりも高い目標を持つこと、そのために何をすべきか計画化し、確実に実行し、差分が出るようであれば修正していくこと、というのはそのまままるまるビジネスでのマネジメントの話と同じ、というのが、すごく嫌な感じがする。
「参加することに意義がある」という言葉はだれがいつから言い出したのかわからないけど、こっちのほうがほっとする。
ではなぜ金メダルが必要なのか?まわりにとってみれば、そのニュースでハイになれるから、メダルとれないとか予選敗退とか、そんなニュースではハイになれないから、ハイになれるものには需要が生まれ、ビジネスに展開できるから、本人にとっては需要度が高まり、自己の資産価値が高まるから、とかとか、意地悪にみればそんな感じだろうか。
感動をありがとう、というのは、予選敗退では感動はうまれない、らしい。
まあたしかに自分が視聴者として観ててもそうだよなあ。。。
経済成長
し続けないと、成り立たない社会って、ヤク中みたいなものでは。
そもそも資源に限りがあるんやから成長し続けるなんてのは無理なので、もうあきらめて、経済成長しなくても成り立つ社会の仕組みというのをみんなで考えていくべきだと思う。