うーん
マツコとつんくの対談番組を見て、自分はインプットばかりでほぼアウトプットしていないなあと思い、頭の中をアウトプットすることをそれがつらくてもやったほうがいいような気がした。
なぜアウトプットしないのか。アウトプットしても起承転結で完結させることができない、メモのようなものしか頭の中に無いから。どういう形を目指してどういう内容にすればいいのか、アイデアが無いから。モチベーションが無いから。アウトプットするということに対して、成功体験が無いから。何を書いても、何をしても、自分が思っていた通りにはならず、自分でそれを良いと思えるレベルにできない。忍耐力がなくすぐあきらめてしまう。
ここ10年くらい、いろんなものごとに対してどう考えるのが・どうふるまうのが正しいのか?そもそもどう生きるのが正しいのか?という疑問に対する答えを探していろいろ本を読んだり考えたりしてきた。
が、明確な答えにはたどり着けていない。たどり着くための思考力や理解力、忍耐力が大幅に足りていない気はするが、いまの自分の途中段階の答えとしては、どれも正しくてどれも間違っており、1つの正解なんてないので、状況に応じてその中間のグレーゾーンをうまく渡り歩いていくことを目指すべき、という感じになる。
例えば、いま、住宅の火災保険の補償内容を検討しているのだけど、どこまで補償を幅広くつけたほうがいいのだろうか?松、竹、梅のどれを選択すべきなのか?安物買いの銭失いを避けるため、最低ランクのものはやめておくべきか?とか。
普通にスーパーマーケットで納豆とかの食料品を買うときでも、どれを買うのが正しいのか、とても迷う。一番安いもので十分だとも思うが、一番安いものを買うことで、何か自分が気づいていない歴史的な悪い流れに加担してしまうのではないか?とかも思ったりもする。なんとなく、地域の経済を、しいては世界の経済をうまく回すために、節約オンリーではなく、そこそこお金を使ったほうがいいのではないか、と思っている。まあ、高めの買い物をしたときに、そう思って自分の心を納得させているだけのような気もする。一方、まとまった退職金はもう望めないことはわかっているので、老後はお金をなるべく使わない生き方をしないといけないので、もろもろ自給自足できる能力をつけ、DIYしていきたいとも思っている。まあ、お金を少ないけど稼げている間は貯蓄オンリーではなく、それなりにまあまあ使って、稼げなくなったら使う量を小さくする、ということをせんといかんなあと思っている。
やはり何を書いているのか、どこに向かって書いているのかわからなくなってくる。。
あと、いまの関心事項をメモ。
・「正しさ」について、現状の哲学?などの学問では、どう答えがでているのか、でていないのか、勉強したい。
・世界史を勉強したい。
・ランニング、ストレッチなどして体が動く状況を維持したい。
対立概念
対立する概念、例えば「善と悪」とか「肯定と否定」とか「緊張と弛緩」とか「乾燥と湿潤」とか、そういうものはどちらか片方だけになってしまうより、どちらも共存または定期的に交代する方が良いんだろうなあ、というのはなんとなく思う。
あと、ちょっと違うかもだけど、性欲のようなエネルギーも、全肯定して行き過ぎたら危ないし、だからと言って全否定して抑制し過ぎたらだめだし、すごく微妙なものだなあと思う。
(やったことないけど)サーフィンのように、左右にバランスをとり続けるというのが重要なのかなあと思う。右に行き過ぎていたら、左に向け、左に行き過ぎたら、右に向ける、というような。そうしないと転んでしまう。
そういえば、乾燥と湿潤で全ての事は説明がつくんじゃないか、と最近思った。乾燥している人は湿潤を求め、湿潤している人は乾燥を求める。みたいな。
冷める瞬間
自分は、何かに夢中になった結果、どこかで一気に冷める瞬間がくる。
それは、何かの現場に行った結果、自分と同種の人を見て、その言動が自分の中の嫌な部分を見ているような気になって嫌になるか、自分よりすごい人を見て自分のレベルの低さを痛感して悔しくてその反動で嫌になるか、どちらかが多いように思う。
どちらにしても、自分一人であれば気にならないが、他人の中に入り、そこで他人と自分の比較を行った結果、冷めるということが多い。
他人と比較して一人で勝手に落ち込むとか、子供っぽいなあ。。いい加減、気にならないようになりたい。。
嫉妬
自分はすごく嫉妬する。嫉妬が自分の行動に大きく影響している。
何か輝かしいものを見ると、それに比較して劣っている自分が悔しくて嫉妬が発生し、その輝かしいものを否定する思想を全面展開してしまう。そんなもんくだらないよ、たいしたことないよ、意味無いよ、と。
自分の嫉妬も激しいけど、世の中も嫉妬で溢れかえっていると思う。ルックスが良い、体型が良い、能力がある、才能がある、成功している人がめちゃくちゃもてはやされ、そうでないのは良くないことだ、努力が足りない、とされるのだから、そりゃあみんな嫉妬してしまう。
その嫉妬が、負けて悔しいから/素晴らしい人に憧れて、自分も頑張ろう!というエネルギーとなるか、前述の自分のように否定に邁進し自分を庇うエネルギーとなるか、その境目・バランス・世の中の空気がものすごく微妙でヒリヒリしていて、簡単に同じ人がどっち側へでも転ぶことができると思う。
その転んだ結果を簡単にWeb上に発信できてしまうから、その中で多くの人と共感したり反発しあったりがぐるんぐるん起きている。ものすごくヒリヒリしているように思う。
例えば、仕事、会社をけちょんけちょんに否定しようと思えばできるし、前向きにとらえようと思えばそれもできる。そのどちらをも後押しをする言説・本がたくさんある。どちらの気持ちも自分の中にある。どちら側も全面にでてきたことがある。だけど、どちらか一方の立場を選べ、さもなければその思いは欺瞞だ、というプレッシャーがある。周りの状況にもよる。周りが否定 が多ければ、自分は肯定に移るし、肯定が多ければ、否定に移る。これは嫉妬ゆえのあまのじゃくな態度だと思うけど、実際にそうで、どちらでもありえる。どちらにも簡単に転べる。
世の中で嫉妬のエネルギーによる肯定と否定の波が起き、それに合わせて自分も肯定したり否定したりして波乗りしている、ようなイメージ。
自分は何やってんだろう、と思う。どちらでもありえるからこそ、自分はまったく何にも注力していない。でも二元論で完全に分離するより、両方の要素を持つ方がエネルギーが生まれる場合もある、という考え方もある。
自分や世の中の完全肯定または完全否定が答えではない。嫉妬を覚えないように悟ることができるかと言えばそれはすごく難しそうだ。自分は狂うことができるのか。何を手掛かりにすれば良いのか。判断基準をどこにおけばよいのか。
今朝方見た明けの明星がとても綺麗だった。本当に、びっくりするくらい。生まれて初めて明けの明星というものを認識した。今まで気付かなかったなんて、すごいな。。
ハロウィン
ここ数年の盛り上がりに違和感を感じる。
携帯カメラとSNSの広がりで、視覚的におもしろいもの・良いものを求める傾向が強まっているように思う。その延長線上にハロウィンの盛り上がりがあるように思う。
「美人過ぎる〜〜」とか「〜〜王子」とかイケメンとかそういう言葉が流行ったのとか、スポーツでもルックスの良い選手をもてはやすとか。
そりゃまあ受けはいいのは当たり前なんやろうけど。
それを前面出してそれだけで溢れかえるのも幼稚なんじゃないのかな、と思う。
とか言って、去年、ハロウィンで仮装した女の子が多数出席した飲み会に参加して、いやあ仮装って良いものだなあと興奮した口がこんなことを言っているんだけども。
それに幼稚という意味合いでは、自分は歌や絵やギターなどのスキルを礼賛する感じが嫌いで、ヘタウマでローファイな感じが好きなのだが、それって幼稚ということにならないだろうか。
でも、根っこは一緒なのかもしれない。ハイカルチャー・ハイファイなものに対して、自分にはそういうスキルや読解力が無いからそんなんつまんないよ、と言いたい心性と、自分にはビジュアルの良さが足りないからそんなんつまんないよと言いたい心性がつながってる気がする。
うーむ、結局、ひがみなのかもな。。